今までは中国の題材ばかりでしたので、シリーズ第10回となる今回はヨーロッパを取り上げ、また前回は中国史上唯一の女性皇帝である武則天(ぶそくてん)を取り上げましたので、女性つながりということで、オーストリアの女帝マリア・テレジアを取り上げてみたいと思います。
マリア・テレジア(1717年~1780年)とは、ハプスブルク家率いるオーストリア(1278年:ハプスブルク家がオーストリアを獲得~1918年:オーストリア・ハンガリー帝国崩壊、オーストリアという国は時代によって姿や名称を変えますので、ここでは便宜上「オーストリア」で統一します。)の君主で、ヨーロッパ各国が利権を激しく争い、また、オーストリアが領邦国家として属し、ハプスブルク家が代々皇帝を務めていた神聖ローマ帝国(962年~1806年、ただし、実質的には1648年に帝国の死亡証明書とも言われるヴェストファーレン条約の締結によって神聖ローマ帝国は国家としての統一性を失い、以降は神聖ローマ帝国も神聖ローマ帝国皇帝も名ばかりのものとなっていきます。)も形骸化し、神聖ローマ帝国に所属していた諸侯までもが相争う、そんな難しい時代に見事にオーストリアを取り仕切り、後のオーストリア帝国(1804年~1867年)と続くオーストリア=ハンガリー帝国(1867年~1918年)形成の基礎を築いた人物です。また、フランス市民革命期に悪名(ただし、誹謗中傷も多い。)をはせた、マリー・アントワネットの母親としても有名ではないでしょうか。
さて、このマリア・テレジアですが、オーストリアの君主として即位して早々に国難に見舞われることになります。
もともとハプスブルク家は、女性の家督相続を認めない「サリカ法典」(西ローマ帝国崩壊後、分裂状態にあったヨーロッパ世界を統一したフランク王国の法典、正確には女性の土地相続を禁止していた。)を採用していたため、本来マリア・テレジアにハプスブルクの家督を相続する権利はありませんでした。しかし、先代ハプスブルク家当主であり、神聖ローマ帝国皇帝でもあったマリア・テレジアの父、カール6世(1685年~1740年)にはなかなか男児が生まれず、ようやく生まれた唯一人の男児も生後1歳にも満たずに夭折してしまったことから、カール6世はついに男児による継承を諦め、マリア・テレジアを後継者と定めることになるのですが、ここで障害となるのがサリカ法典です。このサリカ法典は、フランク王国の後継者を自認する神聖ローマ帝国にとっては絶対的であり、これを枉げてマリア・テレジアを後継者と定めることは、下手をすると、ハプスブルク家は伝統を軽んじる家と嘲られ権威が失墜し、また、これを認めない勢力によって攻撃される危険性を孕んでいました。そこでカール6世は、列国や神聖ローマ帝国内の諸侯に譲歩や根回しを重ね、ようやく国際的な承認を得るに至り、これでカール6世としてはやるべきことはやったつもりだったでしょうが、そう甘くはありませんでした。
カール6世の死後、マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継承しオーストリアの君主として立つとすぐに、フリードリヒ2世(1712年~1786年、一般にフリードリヒ大王とも呼ばれ、マリア・テレジアの生涯の宿敵とも言える人物。)率いるプロイセンを始めとしてザクセン、バイエルンといった神聖ローマ帝国に属する領邦国家の諸侯たちが、マリア・テレジアの継承を認めるというカール6世との約束を反故にし、次々とオーストリアに侵攻してきます。また、これらの動きに同調する形でフランスやスペインもオーストリアを敵として参戦してくることになり、一方こうした動きを良しとしないイギリス、オランダ等の国はオーストリアを支援する動きを見せることになります。ヨーロッパ各地及びインドやアメリカ大陸の植民地をも巻き込み、アメリカ合衆国独立の遠因ともなる大戦、オーストリア継承戦争(1740年~1748年)と続く七年戦争(1756年~1763年)の幕開けです。
今回は長くなりましたのでここで一区切りとし、続きは次回とさせていただきます。