シリーズ第11回となる今回は、前回に引き続き、オーストリアの女帝マリア・テレジアを取り上げてみたいと思います。
前回の最後で、即位後すぐにオーストリア継承戦争(と続く七年戦争)という窮地に見舞われることとなったマリア・テレジアですが、この窮地に立ち向かうマリア・テレジアは即位当時まだ23歳という若輩であり、また父であるカール6世は、マリア・テレジアを男児の孫が生まれるまでの中継ぎと考えていたらしく、マリア・テレジアには政治教育を一切施しませんでした。
しかし、マリア・テレジアには天性の決断力、行動力や政治的センスがあり、オーストリアが窮地にあると見るや、単身ハンガリー(当時ハプスブルク家はハンガリーの王位も獲得していましたが、ハンガリーの土着の貴族たちはこれに大いに反感を持っており、実質的には敵地に等しい地域でした)の議会に乗り込み、窮状を訴えてハンガリーを味方につけます。ハプスブルク家には大いに反感を持っていた彼らでしたが、国家の危機を救うため単身でやってきたうら若く健気な女性の魅力に、すっかり参ってしまったというところでしょうか。また、父の代からの有能な名将ケーフェンヒュラーの活躍もあり、当初の窮地を乗り切ったマリア・テレジアは、次第に政治的センスを開花させてゆき、義務教育制度の導入、徴兵制の改新等の軍の改革、カトリック勢力の引き締め、病院の設置、女性の地位向上、風紀の徹底、人材の抜擢等、旧態にとわられない改革を次々と実施することでオーストリアの国力の充実を図り、更に長年の宿敵であり、開戦当初敵国でもあったフランスとも同盟(外交革命)を結び、またロシアとも同盟を結ぶなど、次々と有効な手をうち戦争を優位に進めていきます。
最終的には、同盟していたロシアが、女帝エリザヴェータ(1709年~1762年)の死とその後の混乱によって突如として戦線を離脱し、また、オーストリアとしても、財政的にこれ以上の戦争継続は困難であったことから、マリア・テレジアの悲願であったシュレージエン(開戦当初にプロイセンに掠め取られたオーストリアの領土)の回復を果たせず戦争は終結しましたが、開戦当初は国家存亡の危機にあったオーストリアをマリア・テレジアは見事に守り抜き、こうして滅亡あるいは衰退を免れたオーストリアは、ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)率いるフランスによって神聖ローマ帝国が完全に消滅した後も大国として存続し、単独で帝国を形成していくことになるのです。
ところで、この戦争を利用してオーストリアからシュレージエンを掠め取ったフーリドリヒ2世率いるプロイセンはというと、プロイセンもまた生産力の高いシュレージエンを手に入れたことで小国から大国へと道を歩みだすこととなり、ついにはドイツ帝国(1871年~1918年)を形成することになります。さすがは、フーリドリヒ2世も「大王」と呼ばれるだけあるといったところでしょうか。
このように、国家存亡の危機に毅然と立ち向かい、優れた政治力を発揮してオーストリアを救ったマリア・テレジアは十分に名君であると言ってよく、マリア・テレジアは実は帝位についたことはありませんでしたが(さすがに、ハプスブルク家の家督だけでなく、神聖ローマ帝国の帝位まで女性が継承するというのは無理があり、皇帝にはマリア・テレジアの夫であるフランツ1世がつくことになりました。)、その功績や、実質的なオーストリアの統治者はハプスブルク家の家督を相続したマリア・テレジアであったことなどから、今日「女帝」と呼ばれています。
※余談ですが、ここで神聖ローマ帝国という国の成り立ちを少し説明します。かつて地中海沿岸を中心に現在のヨーロッパ世界含む広大な領域を治めていたのがローマ帝国でしたが、このローマ帝国は、末期には西ローマ帝国(395年~476年)と東ローマ帝国(395年~1453年、ビザンツ帝国とも呼ばれます。)に分裂してしまい、東ローマ帝国は以後も長く存続することになりますが、西ローマ帝国は分裂後ほどなく南下してきたゲルマン諸族(ゴート族やフランク族など)によって滅んでしまうことになります。
その後ヨーロッパ世界には、ゲルマン諸族らが各々の国を建てる分裂時代に突入しますが、やがてゲルマン諸族の一派であるフランク族(正確にはフランク族も単一の民族ではなく、複数の民族が混成している集団です。)が建てたフランク王国(481年~843年、884年~888年にかけて一時的に再統一されるが以後は二度と統一されることはありませんでした。)が次第に強勢となり、ついには分裂していた各国を征服してヨーロッパ世界の再統一を果たすことになります(再統一といっても、東方には東ローマ帝国が健在であり、西方のイベリア半島にはイスラム帝国のウマイヤ朝がその勢力を伸ばしていたので、かつてのローマ帝国ほど広大な領土を統治したわけではありませんが、それでも現在のフランス・ドイツ・イタリアを含む広大な領域を統治しました)。しかし、このフランク王国には兄弟による分割相続の風習があり、せっかく強大な王国となったフランク王国も、結局は西フランク、東フランク、中央フランクに分裂してしまいます。そして、西フランクが後のフランス王国を、東フランクが後の神聖ローマ帝国を形成していくことになるのです。
ただ、この神聖ローマ帝国は、かつてのローマ帝国とは直接的には関係なく、また、帝国とは言うものの、実態は各領邦国家が連なる寄り合い所帯的な性格が強く、皇帝の権力はそれほど強固なものではなかったことから(大空位時代と呼ばれる皇帝がいない時代さえありました。)、フランスの啓蒙主義思想家ヴォルテール(1694年~1778年)は、神聖ローマ帝国を次のように評しています。「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と。